気づき
当時、私は学生だった。日々のレポート作成に追われ、忙しい日々を過ごしていた。
夜中にレポートを書いていた時、ふと疲れたな~と思って天井を見上げたら、首の真ん中あたりに激痛が。触れてみると、硬いしこりがあった。
なんだこれは??背中に冷たいものが流れるような嫌な感覚が…。もしかして、癌なんじゃないか?いや、まだ19歳、そんなわけないよな、でも、硬いものって良くないよなきっと。でも痛みがあるってことは炎症?…いろんな思いが一瞬にして駆け巡った。お願い、ただの炎症であってほしい。不安でいろんなこと考えた。
私、死んじゃうのかな。これががんなら、ほかに転移してたら、私はこのまま、結婚も、妊娠も、出産も出来ないまま人生を終えてしまうのか。
検査
病院で血液検査をした。(CTもしたかな…。?)診察を待っている間、待合室のテレビでは、地下鉄サリン事件のニュースが…。何か大変なことが起きてる。テレビで何を話していたか覚えてないが、映像をじーっと見ていた。なぜかそこの記憶が未だにはっきり覚えている。事件が起きた日が、病院に行った日だったのかもしれない。
検査の結果、専門の病院に行ったほうがいいと言われた。嫌な予感て当たるんだな…。
専門の病院を紹介されて、エコー検査やら触診やらした。組織をとって検査しましょう、検査はこの病院ではできないので、別の病院で検査してもらうので、予約してください…。後日、針生検をした。周りに医師たちが何人かいて、エコーを見ながら組織に針を刺し、生検した。不安と、緊張のせいもあってか、その時は結構痛かった記憶が。
針生検後の頸部痛
生検し、帰宅後夜になって針を刺した首周囲に痛みが。
朝まで痛くてほとんど眠れず、翌日病院へ行き、薬処方してもらった。私の場合、痛みから気づいたので、炎症が強かったのかもしれない…。勝手な推測だが。(これは私の経験です。人により痛みの感じ方や病状は違うので、これから生検する方は私の経験だけを鵜吞みにしないでください。)痛みは数日で収まった。
病理検査の結果を聞きに行ったところ、予想通り、甲状腺のがんだと言われた。乳頭がん。ゆっくり進行するがんなので、10年以上かけて出来たものだと思うとのこと。てことは、私は小学校3年生くらいの頃からでき始めてたってことか…??首のリンパ節に転移しやすいがんだと言っていた。
ほかの臓器に転移はなかった。いろいろ説明されたのかもしれないが、後はぜんぜん覚えていない。
動揺
19歳でがん。まだたった19年しか生きてない。なんで私なんだろう。
周りはみんな元気で、楽しいことも、恋愛も自由にできるのに。なんで私なの…。こんな私をこれから好きになってくれる人いるんだろうか。私のささやかな夢はかなえられるんだろうか。結婚して子供が生まれたとしても、私は子供が大きくなるまで生きられるのかな、再発したらどうしよう。いろんなことが頭の中を駆け巡った。
健康な同級生が羨ましかった。誰も私の気持ちはわからない。なんでこんな卑屈になってしまうんだろう。
一人で何回泣いたかな…。
自分よりつらい思いしている人はいっぱいいる、病状が重い人もいっぱいいる、小さい子供も病気で闘っている子もいっぱいいる、今になったらわかりますが、当時の私は考えられなかった。狭い世界でしか生きていなかったから。
受容
ある時、もう仕方がないと思った。なってしまったものをなかったことにはできない。
どんなに周りを羨んでも、私は今を見るしかないんだ。
自分にとっての最善の方法を選ぶしかない。
手術をすることが怖かった。手術をしない選択肢はないのはわかってる。だから受け入れたけれど、怖かった。当時は今のように携帯電話もない。SNSもない。同じような経験をしている人を見つけて悩みや不安を共有することもできない。誰かに不安を吐露しても、その時はいいがまた不安が襲ってくる。そんな心の葛藤と闘った。人前で泣いたことはないと思う。強がりな性格もあり、表情にも出さないようにしていた…と思う。
もともと私はDV家庭で育った。感情が不安定になることはよくあった。実家から早く出たくて、専門学校に入ってすぐ家を出た。親に仕送りはしてもらいながら、何とか生活を始めて、やっと自由になれた、その矢先だった。親から解放された、と思ったのもつかの間、今度はこんな仕打ちか。私が何をしたっていうんだろう。なんなんだよ一体。
父親が母親によく暴力を振るっていた。小さい時はかなり頻繁に。(自分も暴力振るわれたことは何度もあったが)私には1つ上の兄がいる。2人で隅っこでよく泣いていた。小さすぎて、母親をかばうことも出来なかった。
父親はヘビースモーカーだった。今では副流煙の害を頻繁に聞くようになり、分煙もされるようになったが、当時は今ほど副流煙がどうの、たばこは百害あって一利なしなど言われてなかった。と思う。
父親のせいだと思った。小さいころから心理的ストレスを与えられ続け、たばこの煙を浴びながら育ったせいだ…と。でも、なんの証拠もない。そのせいかどうかなんて化学でも証明できないだろう。今更誰のせいにしても、何も変わらない。父親を恨んでも、私のがんは消えないんだから。
がんと生きる
手術は、甲状腺少し残して、リンパ節の郭清をした。ほとんどのリンパ節に転移があった。広範囲に手術創があり、痛くて本当につらかった。医師へ痛いと伝えても、痛みの閾値が狭いと言われ、傷ついた。痛みなんてその人にしかわからないもの。どんなに痛いと伝えたところで、相手にはわからない。だからこそ相手の気持ちに寄り添ってほしいと思った。余談だが。
手術して4年後、わたしは結婚した。子供も出来た。現在、手術後26年になる。19歳でがんと言われ、3回再発した。
1回目は妊娠8か月のとき。出産後、東京の病院へ行った。母乳も手術のために止めて、産後1か月弱でミルクに切り替えた。この先また再発する可能性があることを考え、全摘したほうがいいという話になったが、東京の病院では、まだ若いし、リンパ節も1個しか転移がないから、そこだけ局所麻酔で切除しましょうということになり、そこだけ切除した。
2回目転移が発覚したのは、子供が2歳の時。またリンパ節に再発した。今度は東京ではなく、最初に手術した病院で、広範囲にリンパ節郭清をした。現在、右の肩周囲が知覚欠如したような状態。それは2回目の手術後からずっとある。もう慣れたので特に生活に支障はないが、頭痛、肩こりとは一生付き合っていかなければいけないと医師から言われた。
3回目の転移は今年に入ってからだった。もう20年近く何もなく過ごしていたので、もう再発はないと思っていた。昨年末にPET-CTの検査をした。病院から電話がかかってきた。仕事中だったので気が付かず、翌日連絡した。
結果を聞きにいく日が決まっていたので、電話がかかってきた時点で、もしかしてと嫌な予感はしていたが、それが当たっていた。でも、もう手術はしないほうがいいと言われた。理由は、何度も手術してるので、組織が癒着して、見つけられない可能性がある、せっかく手術しても見つからなかったらただ体に負担をかけるだけになる、ということらしい。転移が見つかっても、そのまま経過を見ている方はたくさんいるとのことだった。転移とわかってて体に残しておくのは嫌だったが、とってもまた再発リスクがなくなるわけでもないだろうし、仕方がないと思った。
今はがんと共存しながら定期通院している。40代になって、ほかのがんも気になる年になってきた。子宮がん検診、乳がん検診を受け、異常なしと言われ、安心した。今は2人に1人ががんになる時代と言われている。ぜひ、がん検診に行ってほしいと思う。
がんと宣告されたとき、再発と言われたとき、背中に冷たいものがながれるような感覚と同時に今後自分はどうなっていくのかという不安がくる。今までの生活も一変する。早期に発見できる検診はぜひ受けてほしい。少しでも、こんな経験をする人たちが減ってほしいと思う。